太平洋戦争終了直前の1945年7月26日午前9時26分、1機だけで淡路島北部から大阪に侵入してきたアメリカ軍のB29爆撃機は、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に大型爆弾を投下し、大阪湾を南へぬけていった。ふつうは、淡路島北部から大阪へ集団で飛来し、そのまま東へ向かって熊野灘あたりから太平洋へぬけていくのに、まったく違っていた。
たった1発の大型爆弾によって、死者7人、重軽傷者73人、倒れた家485戸、被災者1645人の被害が出た。当時の人々は、知る限りの大型爆弾ということで「1トン爆弾」が投下されたと話していた。
この爆弾は、1トン(2000ポンド)どころかいわば「5トン爆弾」(1万ポンド)であり、しかも原子爆弾を投下するための模擬原子爆弾で、これを使って原爆投下の実地練習をしていたのであった。このことがわかったのは1991年のことだった。原爆投下訓練
原子爆弾を落とすには、普通の爆弾と違って特別な訓練が必要であった。爆弾は飛行機から落とすと、飛行機の進む方向に落ちていく。高さ9000mから落とし、爆発までに50秒かかるとすると、そのまま飛行機が進むと、飛行機も原子爆弾の爆発で吹き飛ばされてしまう。そこで原子爆弾を落としたらすぐ、飛行機は右へ150度急反転して逃げていくことにした。アメリカ軍は原爆と同じ形・重さ・弾道特性の爆弾(模擬原爆)を使って練習をくり返した。アメリカ本土や南太平洋で練習をくり返した後、7月20日からは日本各地を使って実際に空襲し練習の総仕上げを行った。
使用した爆弾は、長崎に投下された原子爆弾(プルトニウム爆弾)とまったく同じ形・重さ・弾道特性で、直径1.52m、長さ3.25m、重さ1万ポンド、カボチャのような形というのでパンプキン爆弾と呼ばれていた。2000ポンド爆弾を日本では1トン爆弾といっていたので、これは「5トン爆弾」と言える(正確には1万ポンドは4.5トン)。ワシントンでは次のような電報が交わされていた。
「第509部隊は…日本に対する一連の空襲を始めた。その目的は搭乗員を目標地域と最後の任務遂行のための戦法に慣れさせ、又一方日本人に高い高度を飛ぶB29の小編隊を眺めることに慣れさせるためである。」
509混成群団は7月下旬、日本本土に集中的に行動をおこしていた。部隊所属B29 15機のうち、毎回10機が、1機ずつ目的地にむかい、長崎型原爆と同じ形の模擬原爆「パンプキン」、TNT火薬のみの1万ポンド爆弾を投下していたのである。7月10日 10機10目標
24日 10機10目標
26日 10機10目標
29日 8機8目標
(白井久夫「幻の声 NHK広島8月6日」岩波新書 もとの資料は「春日井の戦争を記録する会」による)
7月26日の田辺への爆撃はその1つであった。
碑文
一九四五年七月二十六日九時二十六分 広島・長崎の原爆投下を想定して
この田辺の地に模擬原爆が投下され
村田繁太郎(当時五十五才)他六名が死亡
多数の方が罹災しました
ここに犠牲者の冥福をお祈りし 戦争のない世界の実現と
全人類の共存と繁栄を願い 碑を建立します
模擬原爆(パンプキン爆弾)は、原爆の投下訓練を目的として、
1945(昭和20)年7月20日から8月14にかけて、
東京、富山、滋賀、大阪、和歌山などに約50発が投下されたのだという。
大阪市東住吉区田辺の投下地点は家から自転車か徒歩でも行ける距離だ。
原爆といえば、広島、長崎のことしか教わっていなかったが、
こんなに身近に犠牲者がいたのかと正直驚いた。
近く追悼碑の前へ手を合わせに行こう。